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急行列車の思い出 [そのほかあれこれ]


1970年代僕が小学校から中学校に行っていた頃のこと中心にを書いてみます。そのころ特急
は一寸よそ行きで高級に思え,急行列車が一番身近で旅情を感じる存在でした。
特に播但線,山陰線のDC急行に思い出が多く有ります。

1.但馬
僕が生まれ育ったのは姫路,両親は美方郡温泉町。小さい頃,毎年夏休み
と冬休みには”おばあちゃん”の所に行っていました。姫路から播但線経由
で,山陰線の浜坂までいきそこから湯村温泉行きのバスです。この時乗るの
が播但線のDC急行「但馬」でした。4往復あり姫路-浜坂を直結してるの
は3往復。1往復は姫路-城崎でたしか特急「はまかぜ」が登場した頃季節
列車になったと思います。。浜坂まで行く3往復を僕の家ではそれぞれ「朝
の但馬号」,「昼の但馬号」,「晩の但馬号」と呼んでいました。
 
(1)姫路->浜坂

 a)朝の但馬号
  朝8時ごろ姫路を出て11時ごろに着くこの列車は姫路発浜坂行と言うこ
 ともあり一番よく利用しました。僕の家は姫路駅の南約4kmのところにあ
 り,バスの便がそれほど便利では無かったので。早くから並ぶため,タクシ
 ーを利用することもありました。当時の但馬は7両編成でグリーン車も着い
 ていました。それでもシーズンには,始発の姫路を出た時点で立っている人
 がいたことも有ったように思いますが,30分前につくとまだ其ほど並んで
 はいませんでした。但馬の入る姫路駅東1番線は行き止まり式のホームでそ
 の先の方は少し細くなっていて,ここに並ぶ人は他より少なかったので,並
 ぶのは大抵その辺りでした。
 
  駅弁を買いボックス席に坐ると,これから旅立ちやー,とわくわくしたも
 んです。この列車の車窓では何と言っても餘部鉄橋を中心とした日本海の風
 景でしょう。そのためには右側の席に坐ることになるんですが,実際には城
 崎を過ぎるとガラガラになったので発車時点ではどちら側の席に坐るかは余
 り気にしていませんでした。夏の風景にも思い出深いものが有りますが,や
 はり冬の印象が強いです。殆ど雪の降らない年もありましたが,大抵は福崎
 辺りから田圃に雪が残っているのが見え,但馬に入ると雪が降っていること
 が多かったように思います。強く降り出した雪の中渡った餘部鉄橋は忘れら
 れない風景です。  

 b)昼の但馬号
  大阪発の浜坂行きで何度か利用しましたが姫路からでは坐れなかった印象
 が強いです。親に洗面所のごみ箱に坐れと言われ,恥ずかしいなと思いつつ
 坐っていた覚えがあります。
 
 c)晩の但馬号
  これも大阪始発だったので僕自身は余り利用したことはなく姫路駅で乗り
 たいなあと思いながら見送っていた記憶が強いです。姫新線の「みまさか」
 を併結していたり,姫路で自由席車を増結したりというのも面白かったです。

(2)浜坂->姫路

 a)朝の但馬号
  鳥取を6時前に出る大阪行きで浜坂発は6時半頃。これに乗った記憶は有
 りませんが父親が仕事の都合で利用したことがあり,大人は大変やなあと思
 ったことが有ります。

 b)昼の但馬号
  正午頃に浜坂を出る大阪行き。時々利用しました。旅行シーズンの浜坂駅
 では,通常の改札口とは別の改札口を用意し駅の外までに列が伸びることも
 ありましたが,始発駅ということで,座れないことは有りませんでした。け
 ど,こういう時の城崎,豊岡からの混雑は凄く,楽するためにグリーン車に
 乗った,という贅沢をした記憶もあります。 

 c)晩の但馬号
  1-bの昼の但馬号が浜坂駅2番線に入ってきて折り返します。夏なら夕
暮れどき,冬なら暗闇の中からライトを光らせてDCがだんだんと近づいて
 くるのをみるのも楽しみでした。18時前に浜坂を出て9時頃姫路に着きま
 す。帰りに一番多く利用した列車です。ずっと但馬4号だったのにいつか8
 号になってあれ?と思った事があります。

  姫路止めということもあってか浜坂発車時点 ではいつもがらがらの状態
 でした。いつも駅弁,米田茶店のかに寿しを買うのが楽しみでした。が,夕
 方ということで,売り切れたり,数が足らなかったりすることもありました。
 また土産にあと1つ2つ欲しくなった時は但馬号の車内販売を利用しました。
 社販のかに寿司は豊岡のたで川のもの。弁当自体の味はそう変わらなかった
 ような気がします。けど,この車内販売のおばちゃんが結構味のある人,と
 いうかゴジラみたいな顔にだみ声で「おべんと~」と車内をまわっていたの
 がとても印象的で,いつかこのおばちゃんも列車には欠かせないように感じ
 られるようになっていました。さて,弁当を手に入れれば食べるわけですが
 何時食べるか,これが問題です。なんとか動き出すまでは我慢しますが,で
 きれば余部の鉄橋を渡りながらかにを味わいたい。と,思うものの大抵次の
 九谷をすぎこたころには無くなっていました。せめてというか僕のかに寿し
 の友UCCコーヒーを何とか残して味わいながら鉄橋を渡っていました。
 
  他に,車窓の風景では途中すれ違った,下り「白兎」の窓から漏れる灯か
 りも印象的でした。

  城崎,豊岡と乗客を増やしていき播但線に入ると人の動きは少なくなりま
 す。福崎を過ぎると真っ暗だった窓の外に明かりが増え始め,姫路に帰って
 きたなあ,と感じます。姫路駅に到着しても慌てて降りることはなく,余韻
 を楽しんでから最後の方に席を立ってました。ついでに読み捨てられた雑誌
 を拾う,等ということもしてましたが。
 
 列車を降り,少しのあいだ賑わったホームも段々と静かに成っていこうと
 している時,ディーゼルエンジンの音を聞きながら,ふと振り返って正面か
 らその姿を見る,鉄道ってええな,と思える瞬間でした。

2.美保
 初めてひとりで遠いところに行ったのは,松江でした。祖母の家の最寄り駅
浜坂から松江まで。山陰の水の都と呼ばれるこの街へ,行きは各駅停車に乗っ
てきましたが,帰りは時間の都合もあって米子から急行に乗ることにしました。
夕方の米子駅1番ホームには既に列が出来ていましたが,乗ってみるとみると
少し空席が出るぐらいの乗車でした。駅ごとにぼつんぼつんと降りていき,各
ボックスに一人位になったとき,斜め前の席の女の人が目に入りました。綺麗
な人で,車窓に流れる夕暮れの日本海とあいまって,柄にもなくロマンチック
になってしまった。ということで列車というよりその女の人が印象にのっこっ
ていたりします。

3.さんべ
 さんべは12系客車の夜行に何度か乗ったのが印象に残っています。初めて
乗ったのは下関から浜田でした。指定席に乗った所スキーへ行く人が多く満席
で,窮屈だった筈なんですが,若かったせいか,結構ゆったり寝やすかったな,
と言う印象を持ちました。そのまま出雲市から浜坂まで行く予定だったんです
が鈍行に乗りたかったので浜田で降りる事にしてたんですが,向かいに座った
絵描きやというおっちゃんにこのまま乗っていけとか言われました。このおっ
ちゃん,初めは周りがうるさいと,怒っていたんですが,静かになってくると
自分がべらべら喋り出してちょっと参りました。

4.大社
湯村温泉から浜坂行きのバスに乗ると浜坂駅の手前で踏切を渡ります。ここ
で大社が通過するのを待ったことが何度かあります。バスの一番前の席に座っ
て見ていると金沢,名古屋,大社という文字が目に入りました何れも未知の土
地で何時かこの列車に乗って行ってみたいなと思っていました。この列車に初
めて乗ったのは出雲市-浜坂でした。上のさんべで書いた浜田からの鈍行から
出雲市で乗り継ぎました。この時切符(姫路発の山口・秋吉洞ミニ周遊券)を
無くしたことに気付き慌てた思い出があります。結局見つからなかったんです
が,車掌さんが親切で,前乗っていた列車に2回程連絡してくれたり,降りる
直前まで,「もう一遍探してみたら?こころあたり無い?」等気づかってくれ
たので良い印象が残っています。

5.みささ・みまさか
 姫路から姫新線に入る急行でしたが乗った記憶が有るのは大阪-加古川間
です。これは1985年ごろのことで川崎の会社の寮に住んでいた僕は周遊
券で帰省して銀河で大阪に着きこの少し時間を潰してからこの列車に乗り継
ぎました。周遊券を持っていたので料金の追加は無でよかったから。車内は
がらがらでしたが,DC特有の香りをさせながら山陽本線を力走する姿は印
象に残っています。

6.その他
松江から広島まで木次線経由の「ちどり」。この夜行便に乗る計画を何度
か立てましたが結局乗れませんでした。また,姫路駅で「雲仙・西海」,
「阿蘇・くにさき」と言う14系の座席夜行列車が出ていくのを羨ましく見
送った事も何度か有りました。これも結局乗る機会がないままなくなってし
まいました。
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