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台湾鉄路千公里 宮脇俊三著 ブログトップ
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台湾一周二人三脚(椰子が笑う 汽車は行く 文藝春秋社)(5) [台湾鉄路千公里 宮脇俊三著]

1982年12月15日

台東から高雄へバスで向かう。この時にはもちろん南廻鉄道は開通していない。安くて速いバスは台東平野を行く。今では水牛が水浴びをする光景もなかなか見られなくなったが、南国らしい風景だ。「ベジタリアンではないけれど、牛は大事な動物だから牛肉は食べない。」台湾の人が言うのを何度か聞いたことが有る。そんな関係も水牛のいる風景を台湾らしいものにしているのだろうか。

高雄駅ではまだ、鉄道の指定券のオンライン化もされていない。寝台券専用の窓口が無くなっていたが「今天(今日)」「(明天)明日」「後天(明後日)」に窓口が分かれているのは前のままだ。今でこそ鉄道の切符はオンラインで買えるようになったが、この頃は大変だったんだなと思う。同じ時代、日本ではみどりの窓口が出来ており、国鉄の指定券は全国オンラインで購入できた。しかし、学校の最寄駅にはみどりの窓口が無く、しかもみどりの窓口がある駅でも営業時間が短かったため、クラブ活動が終わってからでは指定券を買うことが出来なかった。それで、授業の合間に最寄駅に指定券を買いに行くと電話連絡をして手書きの切符を発行してもらったのを思い出した。

宮脇氏らは駅前のホテルでカレーライスを食べたあと、「日本の国鉄のように黒い幕を下ろしたりしない」特急自強号の先頭車で前方を眺めつつ、台中へ向かう。今では、夜間を除いて黒い幕を下ろしている電車には殆ど出会うことは無くなったが、僕の小さい頃、姫路から神戸への国鉄電車は常に幕を下ろしていた。それに対して山陽電車だと昼間は全開、夜間でも運転席と反対側の幕は上がったままだった。JR新快速が圧倒的になってしまった今と違い速度、利便性とも差は無かったので、神戸に行くとき片道は山陽電車に乗り前を見ていたような気がする。

台中は柳川西路の屋台でのカエルがこの日の夕食になる。今ではガイドブックにその名を見ることもほとんどない柳川西路だが、この頃は台湾でも随一の屋台街だったらしい。から揚げを頼んだつもりが皮付きの煮込みになってしまい、口直しに「名も知らぬ果物」を7,8種類買って食べている。この「名も知らぬ果物」と言う表現が宮脇氏らしいという気がする。僕ならその7,8種類の果物の名前を調べて全て書いてしまいたくなる。果物の名前が一つもわからないことは無いと思うが「名も知らぬ果物」でさらっと流す。この辺りも宮脇文学の味なのかもしれない。

おわり

台湾一周二人三脚(椰子が笑う 汽車は行く 文藝春秋社)(4) [台湾鉄路千公里 宮脇俊三著]

1982年12月14日-3
莒光号の車内は満席で、宮脇氏らの席は高校生の団体が占拠していた。自願無座の切符を持っている人ならすぐ席を譲ってくれるのだろうが、指定券を持っていると信じ込んでいる高校生相手に少し手間取りながら、引率の女性教師のおかげで席につくことが出来たようだ。乗客に原住民らしい容貌が目に付く莒光号は「拓寛工程で」762ミリから1067ミリに広くなった線路の上を走る。この区間を以前通った時は6月、今は12月まったく逆の季節だが、「車窓風景に変わりがない。」水牛が田を耕し、アヒルが群れている水田が有る。台東線近代化工事の見所とも言うべき「渓口河底トンネル」も「入ってしまうとつまらない」、旧台東線を懐かしみつつ、宮脇氏はやっぱり結構楽しんでいる様な気がする。

台東市の紹介に、人口1万人とある。今では信じられないが、その頃の東部はそれほど不便なところだったのだろうか。前回泊まった「洋州大飯店」を懐かしみつつ、宮脇氏らは「おそらく台東随一」の「興東園大飯店」に泊まる。僕も1992年始めて台東(旧)駅に着いた時に一番に目に付いたのがこの興東園大飯店だった。結局もう少し新し目のホテルに泊まったのだが、興東園大飯店の方に泊まってみても良かったかなと言う気もする。ちなみに「挟み撃ち」を期待したわけではない。今では5星級の台東娜路彎大酒店なんかが出来ていて観光面でも発展して行きそうな台東。便利になることは好いことなのだろうが、あの頃に一度行ってみたかったと言う気持ちが少しだけ大きくなっていく気がした

台湾一周二人三脚(椰子が笑う 汽車は行く 文藝春秋社)(3) [台湾鉄路千公里 宮脇俊三著]

1982年12月14日-2

羅東駅で明円氏が駅弁を宮脇氏がサンドイッチを買う。羅東といえば、2年前の2002年5月ぼくが台湾を訪れたときは台北から進められている電化がこの駅まで到達していて、西部幹線に直通する電車の自強号が羅東始発で運転されていた。この直通自強号に礁渓から台中まで乗った。直前にディーゼル自強号が運転されていた(このときはディーゼル自強号遅れのため福隆で追抜き)ため乗客は少なかったがどちらかと言えば寂しい印象の東部にきれいなオレンジ色の電車が走っているのを見ると新幹線が出来たような気にもなった。来年、台北と高雄を結ぶ新幹線が開通するが、その新幹線が台湾を1周するときは来るのだろうか、そうなれば台湾の交通だけでなく、東部の文化にも大きな影響を及ぼすような気がする。観光客としては、出来て欲しいような、出来て欲しくないような。

蘇澳から花蓮への区間鉄橋とトンネルが連続する区間。ここで若い兵士が立つ監視所の描写が有る。ほんの20数年前のことだが、このとき台湾はまだ戒厳令の中にあった。「立体的で「横」より「縦」」の眺めの中を行き、花蓮に到着すると観光することなく台東行きの莒光号に乗りかえる。人口の少ない区間であるし、台北から列車で乗りとおすには時間がかかりすぎるので、花蓮-台北間ほどの乗客はないが、列車本数もそれなりに少なくなるのでやはり混雑する区間だ。この花蓮-台東が前回、宮脇氏が乗車した768ミリゲージから他の路線と同じ、1067ミリゲージに改軌された区間で、この新台東線が今回の二人旅の主眼である。

台湾一周二人三脚(椰子が笑う 汽車は行く 文藝春秋社)(2) [台湾鉄路千公里 宮脇俊三著]

1982年12月14日-1

宮脇氏は台北駅前のホテルで目覚めると、台北駅を見下ろして列車を眺めている。僕が初めて台湾に行った時、この風景はもう見られなくなっていた。新しい台北駅も悪くない。けど、列車が地下に潜ってしまって見えない、というのはあまりうれしくない。

宮脇氏らは時計回りに台湾を一周するため、まず東部へ、莒光号に乗る。台北から東部へ向かうこの路線は道路の整備が遅れていることから、高速道路が二本走る西部と比べて乗車率がよい。けれど台北から宜蘭の区間は、台北を出るとまず北東へ基隆を目指す、八堵で南西に、福隆を過ぎると南東へ、三角形に二辺というより、四角形の三辺を走っているような感じである。東部への高速道路もこれから整備されて行くと、道路に対して鉄道は大きく遅れをとることに成るかもしれない。そのため、台北から宜蘭の間をショートカットする路線の計画が進んでいるらしい。この路線が開通すれば北部台湾の交通網はまた大きく変わっていくのだろう。

「北海道のオホーツク海岸に似ている。」宮脇氏が車窓から南国である台湾の海岸をみた感想である。オホーツクとは思わなかったが、この車窓風景からは、僕も同じように「寒々とした」印象を受けた。人を寄せ付けなかった自然を感じさせる光景が台北からほんの1時間ほどの所に有る。台湾という島の多様性をあらためて感じた。

台湾一周二人三脚(椰子が笑う 汽車は行く 文藝春秋社)(1) [台湾鉄路千公里 宮脇俊三著]

台湾鉄路千公里で台湾鉄路局の全線に乗ってから2年半、宮脇氏の台湾鉄路の旅がまた始まった。今回は、一人旅ではなく「時刻表おくのほそ道」で、地方の中小私鉄を一緒に巡った明円氏が同行者である。当初は「台湾は念頭になかった。」が、費用に大差が無いこと、そして「「新台東線」に乗れるではないか。」と言う理由で台湾に向かう。

1982年12月13日、宮脇氏は成田発のノースウェスト航空で台北へ、「夜更けの一一時半」ホテルに到着する。僕の場合ノースウェストというか米系の飛行機に乗ったことがない。関空からも夜のノースウェスト便が台北へと飛んでいるが、短い旅行期間で遅すぎる到着は少しくらい航空券が安くても損したような気がして。このとき宮脇氏らは割り箸を忘れ、成田空港のスナックで分けてもらっている。僕がはじめて台湾に行ったとき、屋台でも箸の使いまわしはせずに、使い捨ての割り箸が使われるようになっていた。そのためこの辺りの記述には時代を感じた。ホテルについた宮脇氏らは「台湾啤酒」で乾杯。お酒の苦手な僕なら、パパイアミルクに香雞排とでもしているところ。

椰子が笑う 汽車は行く 文藝春秋社
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